合戦に至る経緯

秀吉の死

豊臣秀吉は天下統一を成し遂げ、朝鮮出兵の最中の慶長3年に死去しました。五大老(徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・毛利輝元・小早川隆景)と五奉行(浅野長政、前田玄以・石田三成・長束正家・増田長盛)を残し、豊臣家の安泰を図ろうとしました。
しかし、後継者の秀頼はわずか6歳であったため、徳川家康は大名間の縁組などに関わる取り決めを破り、次第にその勢力の拡大を図りました。

三成襲撃と家康の動向

慶長4年(1599)3月に前田利家が病死したまさにその日、朝鮮出兵時の対応などにより三成に不満を持つ加藤清正ら豊臣七将による三成襲撃が計画されました。しかし、家康は七将に思い止まらせ、三成を佐和山城に送り届け、謹慎させることにしました。
家康はさらに浅野長政らを暗殺計画の疑いで処分し、利家亡き後の前田家も屈服させました。その後も秀吉の遺命を無視し、勝手な加増や転封を繰り返しました。
秀吉の没後に上洛していた上杉景勝は、慶長4年(1599)8月に治国という理由で帰国し、領内の諸城の修復や道路や橋梁の修理など、明らかに軍事力を強める動きに乗り出しました。
そのため、上杉景勝に不穏な動きありとし、家康は奉行等が止めるのを振り切って会津征伐を発表しました。慶長5年(1600)6月16日大坂を出発し、7月21日には江戸城から会津へ向けて出陣しました。

三成の挙兵

三成は家康の会津遠征を見届けると、再三にわたる大谷吉継の説得に耳を傾けず、豊臣家の安泰を図るには家康の打倒しかないと挙兵を決意しました。さらに安国寺恵瓊や増田長盛らにも協力を求め、毛利輝元にも出馬要請状を出しました。
そして慶長5年(1600)7月17日西軍は毛利輝元を総大将と定めて、大坂城に迎え入れるとともに、家康の罪状を列挙した弾劾状を三奉行の連署を諸大名に発して、家康へ宣戦布告しました。この弾刻状に応じて諸大名が続々と大坂へ参集しました。
三成勢は7月19日より伏見城の攻撃を開始し、8月1日に伏見城は落城しました。勢いづく三成勢は東海・中山・北陸の三道から家康を追い、上杉景勝とともに家康を挟み撃ちにしようと考えました。8月上旬毛利秀元、宇喜多秀家は伊勢路へ進みました。大谷吉継、脇坂安治らは北陸へ進みました。三成らは東山道を進み、8月1日に大垣城に入城しました。

小山の評定

一方、会津征伐に向け、進軍中の家康は7月25日三成が挙兵したと聞き、下野の小山軍評定を開きました(小山の評定)。会議では、豊臣恩顧の福島正則が家康支持を示した後、その他の豊臣恩顧の諸将も福島に賛同し、打倒三成で一致しました。福島正則・池田輝政らは途中井伊直政・本多忠勝と合流し、8月14日には清洲城に集結しました。
家康は会津には秀康(家康の二男)を残して、自らは8月5日江戸城に入り、諸大名宛に多くの書状を出し、決戦への態勢作りに専念しました。清洲城に居る豊臣恩顧の諸将を見極めるまでは江戸城を動きませんでした。

岐阜城の落城

清洲城で家康を待つ、福島正則・池田輝政らは8月20日清洲城で軍議を開き、岐阜城の攻略をめざし、両者が分かれて進軍し、8月22日岐阜城への攻撃を開始しました。わずか1日で岐阜城主織田秀信は降参し、三成側の援軍は全く戦うことなく大垣城へ引き返しています。
勝利の知らせを聞いた家康は9月1日に江戸を出発し、福島正則・池田輝政らが待つ美濃赤坂に、合戦の前日14日正午に到着しました。

西軍関ケ原へ

大谷吉継、脇坂安治らは9月3日に北陸から、関ケ原の山中村に布陣しました。伊勢路からの毛利秀元は9月7日南宮山に布陣し、宇喜多秀家は大垣城へ入城しました。
9月14日、家康が赤坂岡山に到着したのを知った三成は、西軍を鼓舞する目的で杭瀬川で東軍を挑発し、見事に東軍に勝利(杭瀬川の戦い)しました。
その勢いで赤坂の家康軍に夜襲を行ってはなどの意見が出ましたが、東軍が大阪城へ進軍するらしいという情報により、急遽、三成ら西軍は南宮山の南を迂回して関ケ原へ進み、関ケ原盆地の西側へ布陣しました。

東軍関ケ原へ

大垣城から西軍の主力が関ケ原方面に向かったと報告を受けた家康は、直ちに西軍を追って前進するように命を出します。そして15日夜明けには、西軍と相対する形で関ケ原盆地の東側に東軍が布陣しました。

経過図